みなさまこんにちは。9月から始まった私にとっての初めて学期、秋学期(9~12月)が終わろうとしております。この4ヶ月間の授業を通して感じたこの国の教育の良い点、悪い点、今後の課題等を、日本の教育を受けた者として、また実際バングラデシュで教育を受けている者として書きたいと思います。
「先進国が先進国たる理由は、初等教育から高等教育まで母国語で出来ることにある」
私の友人の、教育者が語った言葉です。
バングラデシュの公用語はベンガル語です。しかしバングラデシュの高等教育は、専門によって異なりますが、多くの場合外国語である英語で行われます。私のMBAの授業も当然英語です。「英語での授業」という意味は、「他国、異文化で作られた教科書で勉強する」という意味です。米国発行の最新ビジネス教科書でバングラデシュ人が勉強する。そこには多くの矛盾や問題点が存在します。
大きな問題は、思考が停止してしまうこと。アメリカ人はこう言ってるから、先進国ではこうしてるから。一昔前に日本でもよく聞かれたフレーズではないでしょうか。英語はその「本場」と思われている米国の知識、価値観をすぐに学ぶには非常に有効な手段となります。しかしそこに欠けているのは「この現場(バングラデシュ)はどうか?」という視点です。実践のないビジネス知識は、ただの絵に描いたもち。ただの知的遊戯になる可能性があります。その点は注意が必要です。有難いのは私のMBAの授業は課題が多いこと。つまり「教科書はこうだ。じゃあ実際バングラデシュはどうだろう?」という課題が多いことです。この課題に取り組むことで脳を思考停止状態から開放することができます。大学教授たちはこの「外国から受け取る教育」に対して、きちんと距離を取っていこうと試行錯誤している様子がうかがえます。
教育については非常に多くの議論があると思います。先進国の日本でさえそうなのですから。ただし、基本的にはその国の母国語で初等教育から高等教育まで出来る体制を目指すべきではないでしょうか。他国の教育、知識を自国の母国語に昇華させる。この作業は国家が成熟していく過程で非常に重要な役割を持つような気がしています。
ただしその弊害も存在します。もしバングラデシュがすべての授業をベンガル語で行っていたら一体どうなっていたでしょうか。おそらくベンガル語の特異性が障壁となって海外からの資金、人、その流れが今と比べるととても少なくなっていたのではないかと思います。仮に私の授業がベンガル語で行われた場合、講義は問題なくても、教科書は私は読むことはできなかったと思います。それほど母国語の授業というのは外国人に対して障害になります。
実際その状況は今日本で起きています。私のいた私立大学は、世界に開かれた大学を謳っておりました。しかし実際は留学生を国際○○学部というところに押し込めて、日本の学生との交流機会を少なくしていたように思いました。それは「日本語の授業についていけない彼らを守るため」というもっともらしい理由からでした。母国語が障害となり、日本人学生の国際性を養う機会が減ってしまう。教育を母国語で統一することにはそのような弊害も付きまといます。
そして少し話を飛躍させると、今の就職難もこの日本の教育方針と無縁ではないように思います。今企業が求めているのは、海外で積極的に働ける人材。しかし日本の教育ではあくまで母国語の日本語教育が主体で、英語は試験対策の読み書きが主です。日本語の教科書のみで勉強が可能なため、無意識ではあっても「海外へ」という気持ちが芽生える機会がどんどん少なくなっているように感じます。そのため、企業が求める人材と日本教育が輩出する人材とのニーズのギャップがグローバル化が進むにつれ大きくなっているのではないでしょうか。これは良い悪いではなく「成熟した国家」の持つジレンマではないかと思います。
日本の上記の状況を考えると、グローバル化が進む現在、高等教育を英語で行うバングラデシュの教育方針は、今の時代に合っているのかもしれません。しかしバングラデシュはベンガル語を守るために戦い、独立を果たした国。バングラデシュの有識者には外国から受け取る教育ではなく、それを母国語ベンガル語に昇華した教育体制の確立を目指して欲しいと私は心から願っています。今日はこの辺で。それではまた。
写真:マイメンシン(ダッカ北120キロ)の小学校を訪問したとき、英語の授業に参加しちゃいました。クラス4(小学校4年生)で使った教科書です。生徒たち全員で大きな声で朗読していたことが印象的でした。

バングラデシュ「英語での授業」、その課題
2010年12月11日